「鎌倉散歩」 (その19)   得田 皓則 

浄光明寺 鎌倉のお寺の特徴を持つ

  鎌倉駅から15分、先にご紹介した英勝寺と丁度線路を挟んで反対側になります。鎌倉は平地が少なく、山裾を切り開いてお寺を設ける事が多いのですが、浄光明寺ではまさにその立地の特徴をよく見る事が出来ます。泉ヶ谷の谷間を切り開き(切岸と言います)そこの平地(平場と言います)にお寺の建物を建て、切岸(きりぎし)の壁の下をくりぬきお墓や供養塔を設けています(やぐらと言います)。丹念にお寺の周囲を見るとこの特徴がよく分かります。

(浄光明寺の写真)

 泉ヶ谷の谷間に位置し、京都泉涌寺派の真言宗のお寺である。創建は建長3年(1251年)で開基は6代執権北条長時、開山は真阿和尚。第4世智庵和上の時に大いに発展した。即ち、元弘3年(1333年)後醍醐天皇の勅願所としての地位を獲得する一方、浄土・真言・華厳・律の4箇の勧学院を建立し、学問の道場としての当時の基礎を築いています。また、足利尊氏の帰依も厚く、多くの寄進をえたと言われます。本尊は木造阿弥陀如来であるがその両脇侍座像共々宋の影響を受けた鎌倉彫刻の優品で重要文化財に指定されている。拝観が出来るのは、木曜日、土日、祝日であるが、雨模様の時は中止となる。なかなかユニークな阿弥陀如来像である。

 本堂の右側のやぐらに鶴ヶ岡八幡宮の神主であった大伴家の墓があります。その多くの墓塔の中に神主らしく笏形碑がありますが、その碑面に鳥居と笏が配されているという極めて珍しいもので、他に例を見ない神道墓碑として貴重な作例といえます。

(大伴家の墓の写真)

 お寺の山上には国の指定史跡である冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓があります。この墓は南北朝の様式を良く伝え、また、玉垣は水戸光圀が寄進したものである。為相は藤原定家の孫で、十六夜日記で有名な阿仏尼の子になります。為相は歌学、連歌の造詣が深く歌風は広く世に知られていた。阿仏尼は異母兄に所領播磨国細川庄を奪われた為相の為に京都から下向し訴訟に及んだと言われます。為相も母の後をしたって永仁3年(1295年)鎌倉に下り、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。なお、阿仏尼の墓は英勝寺の近くにあります。浄光明寺から亀ヶ谷坂の切通を通って建長寺の方に抜けられます。

(冷泉為相の墓の写真)

                

(了)