「鎌倉散歩」 (その34)   得田 皓則 

    ◎妙法寺

 先の安国論寺から23分の所にある、苔の寺として有名です。

 当山は建長5年(1253年)日蓮聖人が安房より鎌倉に来られ、初めて松葉ヶ谷に草庵を結ばれた日蓮宗最初の精舎即ちお寺です。そして、文応元年(1260年)827日松葉ヶ谷法難にあわれる等、身延山に入山されるまで20数年にわたり日蓮聖人が起居された霊蹟であります。

(御小庵の跡)

 四祖(日蓮宗4代目)の日静上人の高弟、日叡上人は、鎌倉宮の所で登場した悲劇の親王、大塔宮護良親王の御子で幼名を楞厳丸(りょうごんまる)と呼び、仏門に入って楞厳法親王妙法房日叡と名乗られた方であります。上人は父宮護良親王の亡くなった所であり、日蓮聖人に由緒深い鎌倉の地を慕って、松葉ヶ谷に来り、延文2年(1357年)小庵の跡に堂塔伽藍を復興されました。そして、楞厳丸の名にちなんで楞厳山妙法寺と称し、山頂に、父宮、母宮の墓を建て、その冥福を祈られました。

(大塔の宮護良親王の墓)

 以来、勅願寺となり日蓮宗の名刹として法灯が受け継がれました。

 32世日応上人、33世日慈上人は共に寺門の興隆につとめ11代将軍家斉及び奥女中、水戸徳川家、肥後細川家、加賀前田家、紀伊徳川家及び江戸市民の帰依を受けました。11代将軍家斉しばしば妙法寺に詣で、そのため総門、仁王門、法華堂は朱塗りにしたと言われます。明治中期まで境内に将軍御成の間があったということです。

(朱塗りの仁王門)

日蓮と白猿と(やく)(よけ)生姜

 文応元年827日日蓮が夕べの読経をしていると、白い猿が現れ、衣の袖を引きいずこかへ案内しようとする。山中に付いていくと、今迄いた小庵で人声がする、即ち、松葉ヶ谷の難であります。ふと見ると山王権現の祠があり、これは山王様が自分を助けるために白猿を使わしたものと感謝し、ますます不惜身命の志を固めたと伝えられます。

そして、難を避けたお猿畠では白猿が山中の生姜を日蓮に捧げた。日蓮はこの生姜を召し上がり英気を養い、お猿畠より更に下総に移って無事に難を逃れたと言われます。

 以来、当山では松葉ヶ谷法難会(827日)と龍口法難会(91213日)には御宝前に生姜を供え「除厄(やくよけ)生姜」として供養します。そして、この生姜を食して厄除けを祈願すると身体健全、無病息災の果報が得られるとの事で、多くの参拝者が参るそうです。

 所で、寺の縁起には以下のような文章が書かれております。

鎌倉には最初の御小庵または御草庵と称する寺が23ありますが、明確な記録及び歴史的根拠の点より見ても、妙法寺が御小庵の旧跡であることは決定的であります。

とあります。先の安国論寺の事を指しているのかも知れませんが、果たして、日蓮はどこに居を構えたのか?

どちらか片方なのか、或いはこちらには小庵をあちらには岩屋をと両方に居を構えていたのかも知れません。

日蓮のみぞ知る!?と言うことでしょうか。

(本堂・文政年間、肥後藩主細川家の建立)

(了)